徳川家光と側室の関係とは?男色の噂があった?

2024年1月3日水曜日

歴史

 


徳川家光は徳川幕府の3代目の将軍であり、この家光の時代に大奥がきちんと組織されたことは有名です。

家康の時代には政治を取り仕切る表と将軍の私邸としての奥がありましたが、3代将軍の乳母である春日局によって大奥としてのシステムが形作られました。

そんな家光ですが、歴代将軍の中でも男色の噂が囁かれていることで知られています。

しかし、きちんと世継ぎは残していることから、実際のところ男性問題や側室との関係はどうだったのかが気になりますね。

徳川家光と側室の関係とは?

家光の側室は、お振の方、お楽の方、おまさの方、お夏の方、お玉、お里佐の方、お万の方、お琴と8人います。

最初の子供を産んだのはお振の方でしたが、男色に走る家光を心配した春日局が、お振を男装させて近づけたというエピソードが残っています。

しかし、お振は家光の最初の子「千代姫」を産んだあとから体調を悪くして、3年後に亡くなります。

このお振の方をきっかけに男色がなくなったかどうかは分りませんが、その後は順調に側室を迎え入れて子供を儲けています。

中でもお万の方はかなり寵愛されていたと伝わっています。

そもそも家光はお万が尼さんだった頃に見初めて還俗までさせて側室としていますので、相当な気持ちの入りようだったことが分ります。

2人の間に子供はいませんでしたが、家光亡き後、お万の方は大奥を取り仕切り、第二の春日局と恐れられたとも言われていることから、かなりの権力を持っていたということでしょう。

お楽の方は4代将軍家綱の生母であり、お玉が産んだ子が後の5代将軍である綱吉です。

おまさの方は夭逝した男の子、お夏の方は甲府宰相の綱重、お里佐の方も夭逝した男の子、お琴は子供は産んでいません。

しかし、お万の方に子供がいなかったことは、何かの画策があったのではないかと言われています。

京都の公家の出身であるお万が子供を産むことで、将来公家が力を持つことを恐れた将軍家に、妊娠するたびに薬を飲まされていたという説もありますが、家光の寵愛が別格だったとも伝わっているので真実は謎のままです。

もともと女性に興味がなかった?

戦国時代の大名には多くの男色がいたことはよく知られています。

当時では女性は不浄と言われており、出陣の前に女性に触れるということ自体縁起が悪いとされ、女性に近寄る武将がいませんでした。そのため中には男色に走る武将も多かったそうです。

家光の時代は戦国の世ではなかったものの、当時の名残みたいな感じはあったようです。

実際に家光が男色だったかどうかはハッキリしていませんが、家光が男性に興味を持つ傾向は、実は幼い時からすでに始まっていたと言われています。

当時は風紀が乱れるという理由から歌舞伎も女性ではなく男性のみで行われていました。

その多くは少年俳優が演じる歌舞伎がポピュラーであり、家光はかなり関心を寄せていたようです。また、自分自身も化粧などをして歌舞伎の真似事までしていたと言います。

正室との関係はどうだったの?

家光の正室は鷹司孝子(たかつかさたかこ)という人です。関白も勤めた父親を持つ公家のお姫様でしたが、家光に嫁いできてからはかなり冷遇されていたと伝わっています。

輿入れして間もなく、家光と妻の孝子は別居してしまい、夫婦仲は最初から破綻していました。そのため、正室である孝子は「御台所」と呼ばれることもなくその扱いもひどかったでそうです。

家光が亡くなった後の形見分けもほとんど行われず、後の将軍となる家綱、綱吉との養子縁組も行われていなかったと言います。

そのため孝子が亡くなったときに家綱は喪に服すことが出来ませんでした。なんだかかなりヒドイ扱いだと感じますが、よっぽど嫌いだったみたいですね。

家光が正室である孝子と夫婦生活を送らなかった理由には、家光の男色関係などの要因もあると言われていますが、根本的には2人の性格の不一致だったのではないでしょうか。

男性関係の噂があったみたいだけど

家光はただの男色ではなく、とても多くの恋人がいたとも言われています。

家光は身分が高い武将なので、普段から小姓などのお世話係がいますが、その中から自分好みの少年を恋人にしていたそうです。

小姓は出世の足掛かりにもなることから、家光には逆らえない面もあり、家光の誘いを断れなかった者も多かったとか。

その中でも特に酒井重澄(さかいしげずみ)と堀田正盛(ほったまさもり)の2人は、家光の寵愛を受けて競い合ったライバルだと囁かれています。

そのため、2人はどんどん出世していきました。

しかし、酒井重澄は病気を理由に家に篭っていると言っていたにも関わらず、その間に子供を儲けていたことが家光にバレて更迭されてしまいます。

これが原因で酒井は自害したと言われています。家光は女性に走った彼に嫉妬したのでしょうか。

逆に堀田正盛は家光が亡くなったときに殉死していることから、気持ちを貫き通したとも言えますね。

まとめ

徳川家光は男色の噂はありましたが、側室たちとの関係も良好な感じで後に将軍となる子供も儲けています。しかし、正室とは最初から最後まで険悪でした。

この方を語る上で春日局と大奥は欠かせないでしょう。

フジテレビの時代劇として2003年に「大奥」が取り上げられたことがありましたが、このドラマをきっかけに大奥の歴史に詳しくなった方も多いと思います。

フジテレビの大奥は女性メインのドラマですが、家光のエピソードも盛り込まれているので、機会があったら見てください。とても面白いですよ。

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